フランスの聖堂の世界遺産について〜世界遺産へ旅立つ前に

フランスの聖堂をめぐる〜世界遺産旅行ガイド
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パリのエッフェル塔を望む風景
 こちらでは、フランス共和国の世界遺産――特に聖堂などの文化遺産群についてご紹介させて頂きます。フランスといえば、日本でも頻繁に名前を聞く国家ですし、特に力を持った先進国の1つとして良く知られています。ですが、我々日本人からすると「なんかオシャレな国」「芸術の都」といった“漠然としたイメージ”があるばかりで「フランスがどのような国なのか」という具体的な説明ができるものでもありません。
 そこで、
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 こちらでは、フランス共和国の世界遺産――特に聖堂などの文化遺産群についてご紹介させて頂きます。フランスといえば、日本でも頻繁に名前を聞く国家ですし、特に力を持った先進国の1つとして良く知られています。ですが、我々日本人からすると「なんかオシャレな国」「芸術の都」といった“漠然としたイメージ”があるばかりで「フランスがどのような国なのか」という具体的な説明ができるものでもありません。
 そこで、トップページでは個々の世界遺産に関してではなくフランス共和国という国自体への見聞を広げて頂くための地理・歴史的なトピックをお伝えしたいと思います。歴史有るヨーロッパの国家:フランスは、果たしてどういった国なのでしょうか。


◎フランスにまつわるエピソード
〜フランク王国の盛衰

 中世草創期に発生したゲルマン民族大移動によって、西ヨーロッパ地域はかつてない激動に見舞われました。ゲルマン人の侵入によって西ローマ帝国の版図は削り取られ、ローマ帝国分裂から100年と経たないうちに滅亡したのです。
 その後、西ヨーロッパではいくつものゲルマン王朝が乱立する群雄割拠的な時代を迎えることになったわけですが、その中で西ヨーロッパにける最も大きな基盤を築き上げて発展したのがフランク王国と呼ばれる国家でした。このフランクという呼称が、現代でも用いられている「フランス」という国名の由来です。
 そこで、こちらではフランスにまつわるエピソードとして、フランク王国の盛衰についてお話したいと思います。
 そもそも、フランク王国というのはゲルマン人の一派であるフランク族が建国した王国のこと。建国者はメロヴィング家のクローヴィス1世です。
 西ヨーロッパに成立したゲルマン人王朝は数多く存在しており、北イタリアに建国された東ゴート王国、イベリア半島に建国された西ゴート王国などが有名。ですが、これらは結局、東ローマ帝国やイスラーム勢力――ウマイヤ朝によって滅ぼされており、西ヨーロッパ世界で盟主の地位を築くことはできませんでした。現代の西ヨーロッパまで繋がる「歴史的な系譜」の本流にまで入りこんだゲルマン王朝は、フランク王国ただ1つだったのです。
 これにはゲルマン人王朝が持っていた共通点である「少数のゲルマン人によって多数のラテン人を支配する」という構造が影響していたのは間違いないでしょう。正統カトリックとされた「アタナシウス派キリスト教」を信仰するラテン人からすれば、多くが「アリウス派キリスト教」を信じるゲルマン人は異教徒ですし、さらに人種も違うとなれば反感を買いやすいのは必定だからです。この状態でラテン人の精神的・宗教的支柱であるローマ教皇・同じラテン人の世俗的権威である東ローマ皇帝を敵に回してしまえば、ゲルマン王朝の存続は非常に困難と言わざるを得ないでしょう。実際に多くのゲルマン王朝は、この不利を覆すことができずに滅亡していったわけですし「異民族王朝が安定統治を続けるのは難しい」という事実は否定できません。
では、フランク王国はどうやって、この不利を覆したのでしょう?
 その大きな理由は、被支配民族であるラテン人と同じカトリックを受容したことです。建国してフランク族をまとめあげたクローヴィス1世は、自らカトリックの洗礼を受けて正統であるアタナシウス派へと改宗したのでした。これによって、すでにカトリックを信仰していた既存勢力の支持を得ることに成功したわけですね。
 その後も、フランク王国の実力者はカトリックとの融和・共存を図ってフランク王国への支持を取り付けていきました。王国内の実権は、徐々にメロヴィング家の国王から「王宮内の財政・軍事を取り仕切る長官」的な役割を担っていた宮宰へと移りましたが、彼らもまたローマ教皇への接近を重視したのです。
 また同時に、カトリック勢力のトップであるローマ教皇もまた、ギリシア正教を信仰する東ローマ帝国との摩擦が強まっていく中、カトリックを保護する世俗的・軍事的権威の存在を強く必要としていました。
 そういった状況下で西ヨーロッパが大きく動いたのは、イスラーム世界を統一したウマイヤ朝がイベリア半島を制圧――ついにピレネー山脈を越えて西ヨーロッパへの本格侵入を企図したという出来事がきっかけ。ローマ教皇として、異教徒による西ヨーロッパ制圧は何としても避けるべき事態ですが、宗教的な対立が顕著になっていた東ローマ帝国による救援は期待しづらい状態になっていたからです。
 そこでカトリック世界のために動いたのが、当時フランク王国の実権を握っていたアウストラシア分王国(フランク国内の分国で、政治的区分のようなもの)の宮宰――カール・マルテルでした。彼はフランク王国軍をまとめ、ピレネー山脈を越えようとするウマイヤ朝アラブ帝国の大軍を、トゥール=ポワティエ間の戦いで撃破――西ヨーロッパのカトリック世界を守ったのです。
 これによって、カール・マルテルの家柄である、宮宰を世襲していたカロリング家とローマ教皇の関係が急接近。同時に、フランク王国は西ヨーロッパ世界の世俗的権威としての正当性を確立する契機となったのでした。
 その後、カール・マルテルの子であったピピン3世が宮宰の地位を継承しましたが、ピピン3世は教皇に対して「国王の称号を持っているだけの人間と、王権を実際に行使する人間では、いずれが王であるべきか」という質問を投げかけます。これに対して教皇も「後者こそが国王であるべき」と返答し、宗教的権威でるローマ教皇の支持を取り付けたピピン3世はクーデターによって王権を簒奪、正式にカロリング家のピピン3世がフランク国王の地位を手に入れたのです。
 その後もピピン3世は、北イタリアでローマ教皇を圧迫する存在となっていた同じゲルマン王朝のロンバルド王国(ランゴバルド王国とも呼ばれる)と戦い、ラヴェンナ地方の領土を奪います。しかも、奪ったラヴェンナをローマ教皇領として教皇に寄進――ますます教皇との結束を固めました。(このラヴェンナが教皇領となったことで、教皇が領土を保有する形態が確立され、それが今も現存するバチカン市国の根拠へと繋がっているのです)
 この蜜月関係はピピン3世の没後にフランク王となったカール大帝の時代にも継続しました。イタリア半島に遠征したカール大帝はロンバルド王国を滅亡に追い込み、新しく手に入れた中部イタリアの土地をローマ教皇に寄進。その後も積極的な外征を継続し、最終的にはイギリス・南イタリア・イベリア半島を除く西ヨーロッパを政治的に統一したのです。
 そして、ついにフランク王国が西ヨーロッパの盟主となる瞬間がやってきました。西暦800年のことです。クリスマスのミサに参列するためにサン=ピエトロ大聖堂を訪れたカール大帝に、時のローマ教皇レオ3世は大きな意味を持つ王冠をかぶせたのです。その王冠というのは、西ローマ滅亡以降に所有者のいなくなっていた「西ローマ帝国皇帝」の冠だったのでした。こうして、フランク国王:カール大帝はついに“復活した西ローマ帝国”の皇帝として、正統な西ヨーロッパの盟主となったのです。
 しなしながら、この統一は、カール大帝の次代となるルートヴィヒ1世の治世まで――たったの2代しか続くことはありませんでした。ルートヴィヒの子息たちは帝位をめぐる抗争へと発展し、結局3兄弟でフランク王国の版図を分割することになったのです。
 フランク王国の領土は、現在のフランスに相当する西フランク王国・現在のドイツに相当する東フランク王国・現在のイタリアに相当する中フランク王国(ロタール王国)へと3分裂し、西ローマ皇帝の冠はロタール王国が継承しました。その後、西ヨーロッパが完全統一されることは一度もないまま、2012年現在にも当時の3分裂で出来上がった3国が存在しています。
 ちなみに、その後の西フランク王国は王家を交代しながらフランス王国として西ヨーロッパの強国へと発展していき、東フランク王国は度重なる王家断絶を繰り返しながらも後に神聖ローマ帝国として一時代を築きました。ただ、ロタール王国だけは早期に分裂してしまい、再統一は19世紀のサルデーニャ王国がイタリア統一を果たすまで待たなければなりませんでした。



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